自分が変われば人も変わる
この意味を理解するのにかなり時間がかかりました。
どうして「自分が変わる」と、「人が変わる」んでしょう?
別に、他人の性格が変わるためには、自分が関係する事などあるのでしょうか?
逆に言えば、自分が変わることで、他人が変わるのでしょうか?
同じように感じますが、本当にただ逆なのでしょうか?
こんなこと、どちらでも良いではないかと思われるかも知れませんが、私はこの点をしっかりと理解しなければ、これからの人間社会が崩壊するのではないかと思うからです。
極端な意見に聞こえるかも知れませんね。
この理由としては、余りにもこの社会が自分勝手な考えで、動いている気がしてならないからです。
もちろん私にも自分勝手な、利己主義的な心があります。否定はしません。
自分が変わる……ことで、人の心にどのような変化が起こるのでしょうか?
私は早朝のアルバイトを長い間しています。
それには、お金が必要(子供はどんどん大きくなりますからね)なことと、私をここまでしてくれたのは、このバイト先だったからです。
その関係もあって、今でもお世話になっているのです。
ところで、私は長い間この仕事をして来ていますが、その間に多くの人々と接触がありました。
そして自分の「好む人と好きになれない人」が存在していました。
もちろん今でもその関係は存在していますが、しかし以前ほどではありませんが、現在の私の気持ちには、「わだかまり」が減っているのは事実です。
なぜそのような「わだかまり」が減って来たのでしょうか?
それには色々な理由があります。
とある人を、Aさんと言っておきます。
彼は酒飲みで、いつも自分の意見を強引に押し込もうとします。
そして、何事においても、少しでも自分の気に障れば、喧嘩ばかりをして来ました。
どう見ても彼の姿には、自愛というものは微塵にも感じられませんでした。
そして彼は常に他人に批判的であり、自分以外は敵だとも思えるような態度を、他の人たちに示していました。
ある時,彼と同じ仕事をいている同じような性格の仲間が、おとなしい同僚に対して( この人は私達よりも年配の方で、温厚な方でした )陰湿な虐(いじめ)をしているのです。
彼らはそれを良くない事とは、全く理解してはいませんでした。
逆に、自分たちが正しいと、声高々に披露するのです。
虐められている人は、年齢ももうじき六十歳で、定年後の年金を貰えるまで来ていました。
年金を楽しみにその仕事をしていましたが、とうとう彼等のしごき(暴力、殴打)によって、その仕事を辞めざるを得なくなりました。耐えれなくなったのです。彼の言葉が蘇ります。「後一年間で資格があるのに・・・・」。
決してこの人は、仕事をサボるということなどは全くしませんでした。
反対に、暴力を振るった人間が、酒を飲みすぎ、勝手な振る舞いばかりしていました。
しかし会社はまったくお咎めなどしなかったのです。
私達はいつもこの酔っ払いに対して反論をし、私は一度そのAと殴り合いはしませんでしたが、かなりの喧嘩をしました。
本音は殴りたかったのですが、それをして怪我をさせることは、私の心が許さなかったからでした。 勝ち負けで言うのなら十分勝てる相手ですが、やはり私の心は殴り合いは避けなさいという心でした。
Aはその同僚を辞めさせたことに対して、何の反省の思い(呵責)も持つどころか、当然だとしていました。
一言もこの事については、「悪かった」とは言いませんでした。 悪かったと言えば、自分が罪を認めることになりますからね。
Aは必ず酒を飲まなければ、大きな態度を取ることは出来ませんでした。
そうでない時は、全く大人しいものでした。 酒の力を借りないと、自分の思いが伝えることが出来ない心の持ち主でした。
だから私は、本当に「小心者」として、彼を理解していたのは事実です。
神経質で、自分の考えが全く正しいのだと、言い張る姿は、哀れなものを感じたものでした。
しかし月日が経ちました………。
しかしながら、私は彼には、常に間隔を置いて接する注意を怠りませんでした。
わざわざ自分の心を、好き好んで、自分から荒々しくさせる必要は無いからです。
その人にはその人相応に、その人に応じたお付き合いをしなければなりません。
そうでなければ、心を「平常心」にしておくことは難しいからです。
友人を選ぶことも大切なことだ、と聞いたことがあります。
昔、仏陀が、シャーリープトラー(舎利仏)から質問を受けました。
「仏陀よ、友を選ぶことは、どういう意味があるのでしょうか?」と。
そして仏陀は、
「舎利仏よ、友を得ることは人生のすべてである。」と答えられたそうです。
善き友を得ることで、それは人生のすべてにおいて、互いに切磋琢磨することが出来るからだ、ということだそうです。
友とは、何も友人というだけではなく、魂の友ということです。
だから、形的には、夫婦であったり、親子であったり、他人であったりとして、互いの魂にとって、有益で前進して行ける、切磋琢磨が可能な仲間とでも言えるものだと思います。
長い転生輪廻の中で、我々は、肉体は他人であっても、むかしからの関係では兄弟であったり、夫婦であったり、親子であったりとして、互いの関係を持って、人生を行き続けて来ているのが現実です。
だからこそ、どの次元の生活においても、互いに切磋琢磨できる関係こそ、「魂としての友人」になるのではないでしょうか?
私たちは、この肉体の目で、物事を判断しています。
しかし、この不確かな目(4000オングストロームから7000オングストロームの波長しか見ることが出来ない目を持っていること)を利用しているにしか過ぎないこの現実社会で、真実を見つめることは、本当に困難になっているのも事実ではないでしょうか?
話は長くなってしまいましたが、元に戻しましょう。
先ほど出てきましたAは、長い間、人から嫌われていましたが、この会社は、どのような理由でこの人を雇っているのか分からないくらいに、この人を擁護するのです。
普通の会社であれば、すでに解雇されてもおかしくは無い行動(欠勤、暴力、暴言)をしているのですが、全くお咎めが無く、未だに働くことが出来ているのです。
すでに、彼とつるんでいた仲間は、誰一人いません。
すべて辞めるようになっていました。 彼だけが残っている状況です。
ところが、彼はだんだんお酒を飲まない日が多くなって来ました。
確かに酒を飲む仲間が居なくなったのも、原因だとは思いますが。
ちょっとした病気になったことも原因かもしれません。
そして今では、お酒を飲んでいる姿を、職場では見ることがありません。
いつもお酒臭い息をしていたのですが、今では殆どその気配も無いのです。
そして、彼は、「すまん」という言葉を言うようになって来ているのです。
この「すまん」という言葉を初めて聴いたとき、私は少々驚いた気持ちでした。
彼から、このような言葉を聞くとは、夢にも思いませんでした。
しかし事実、彼は今では、どうしてかは分かりませんが、少し表情も穏やかに成って来ています。
そうすると、私の方も、気持ちが安心して来ました。
そして穏やかになって来ているし、私の方もそうなっているのです。
この関係は、今までには無かった状況です。
しかし間違いなく、彼は変わって来ているのは事実でしょう。
根本的に変わったかどうかは分かりませんが、それはどうでも良い事だと思います。
彼に、何か変化があったのは、事実だからです。
そして、私の気持ちにも、彼のその姿から、以前とは違う気持ちが現れて来ているのも、事実なのです。
「自分が変われば、人も変わる」
Aさんは自分が変わったと、思ってはいないかも知れません。
しかし、私から見ると、本当に穏やかに成りつつあるのです。
定年が一年延びたのも原因かもしれませんが、決して彼が貧乏でないことは間違いありません。
なぜなら、最近三百万円以上もする車に乗り換えて、仕事に来ているのですから。
またアパートを経営しているとも言っていますから、お金には困っていないようです。
しかし以前の彼の姿は、臆病で、小心者の子供でした。
何が彼を変えたのかは分かりません。しかし事実、彼は変わりました。私にはそのように見えます。
彼が変わって来たから、私の気持ちも変化して来ているのです。
彼が酒に溺れていた時、私も気持ちが荒んでいました。
それはこの現場が、いつ喧嘩になるか分からないから、私の心は戦々恐々としていたからに他なりません。
しかし、彼から、荒々しい感情が小さくなるにつれて、私の心は楽に成って来たのです。
やはり、これだけでも理解出来るのではないでしょうか?
「自分が変わることで、人が変わる。」
これは、事実です。
何もAさんのように、はっきりと現れることばかりではないでしょう。
知らず知らずの内に、いつの間にか、自分が変わっている事もあるでしょう。
強制されて、自分を変えるのではなく、自分から、「変えて行きたい」という、願いがあれば、人は必ず変わって行くと思います。
それを証明されたのが、Aさんであり、この理(道理)を、理解させて下さったのも、Aさんです。
だから、この社会を荒んだものしているのは、他ならない、私であり、貴方なのです。
ゆえに、自分を変えて行こう、「荒んだ心を、変えて行こう」「もっと人々を、愛して行こう」「女房を愛して行こう」「旦那を愛して行こう」「子供に心の成長をさせてあげよう」等々の気持ちで、自分を変えて行くことで、この社会は、必ず変わって行くと信じています。
「自分を変えたい!」「変わりたい!」この切なる願いを持って、自分を理解して行くことこそ、人間としての本来の姿なのかもしれません。
高いお金を出して、自分を変えようとするセミナーが沢山あります。
でもそんなお金を出さなくても、自分から自分を変える道が存在しています。
それは「自分の心の内を見つめる」という、行為があれば良いだけなのです。
そして、その行為によって、自分を見つめ直し,これから自分がどの方向に進んでいけば良いのかを、しっかりと、言葉でも、意識でも断言して、行動を起こしていくだけで良いのです。
GLAはそのお手伝いをしている所です。
私も会員ではありますが、強制する所では決してありません、ということを断言します。
もし私のこの発言に異論を唱えられる方があれば、仰って下さい。
その事実が存在しているのなら、私は責任を持ってGLAを辞めさせて頂きます。
これは間違いの無い事実です。
ただ現在の多くの人々の中には詐欺や偽証を受けられ、疑心暗鬼になっている精神状態の人も多いのは事実です。
しかし、この時代だからこそ、真実はハッキリと目の前に現れて来ます。
私も最初はそうでしたが、今は自信を持って、GLAは「自分改革」をお手伝いする所であることを,主張することが出来ます。
お客さんの中にも自分の心の発見をされて、新しい自分作りに励んでおられる方が居られます。
病気に対しても、新しい考え方のもとで、今までの自分を振り返り、今までに無い実践を行っておられます。
その事実を見るにつけ、私はこの人にお勧めして良かったと思っています。
もちろん誰彼もと言う訳には行かないのかも知れません。
しかし人間である以上、人は元源を辿れば、一点から始まっていますから、理解することは誰でも出来ることだと信じています。
自分の持っている概念を、それも既成概念を打ち砕くことから始まりますが、決して恐ろしいことでも難しいことでもありません。
逆に、心配するより産むがやすしで、「そういう事だったんか、なーんだ!」という感じで受け止めることになります。
そして、自分の心の闇を照らし出し、そこに光を与えることで、心は安らぎ、物事を正しく認識することが可能になって来ます。
人はすべからく、楽しく生きて行きたいものですからね。
多くの方々は、この時代に在って、自分が一体何者かが分からないままに過ごしているのではないでしょうか?
そのこともハッキリとして来たら、人々はどの様な気持ちで、自分の未来を形作るのでしょうか?
それはとても興味のある問題ではないでしょうか?
私はこれからも、死ぬという現実が目の前に現れてくるまで、しっかりとこの問題とともに、解明する努力と、毎日を神理に従って生きて行ける様に努力を惜しまず、生きて行きたいと願っています。
皆様も一緒に、この私たちの取り巻く全ての現象に対して、新しい人間としての視点で、目の前のうつばり(壁・覆い)を取り外して、見直して行こうではありませんか。
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